「ひろみさんは〇〇な人ですよね」
と同意を求められて困る、
ということがあります。
〇〇の部分が褒め言葉であったとしても、
または、そうでないとしても、
同意を求められるのは困るのです。
相手の方が、ひろみさんをどういう人に
見ようとも、それは相手の自由。
勝手に見たいように見ていただければ
良いと思うのですが、
ただ、同意はできないのです。
なぜなら、人間て、常に変化していて、
動きそのものであって、
そこに固定された誰か、が居るわけではない
と考えるからです。
私はこういう人です!と断定する言が
ナンセンスに思えてならないのです。
だから、たとえば、
私は礼儀を知った人間だ!とか、
あるいは、私は礼儀を知らない人間だ!とも、
どちらにも、断定することができない。
人間とは、あらゆる可能性に満ちた場であって、
どんな人であれ、時と場合、縁起によっては、
何が出現するか分からない。
そういうものなのだと思います。
勿論、礼儀を知る人は素敵だし、
そのように在りたいものです。
しかし、ところで、
何をもって「礼儀を知る者」とするか?
という問題が、今度は出てきます。
他の誰かが考えた、「礼儀を知る者」と、
私が考える「礼儀を知る者」は違うかも
しれないし、違わないかもしれない。
私は、私の考えるところの、
礼儀を知る者の振る舞い、
私の考えるところの、正しさに従って
生きる他ないのだ と改めて思います。
他人から与えられる正しさや、
価値基準に従うのではなく、
それは、自分で見つけていくもの、
自分で決めていくものなのだと思います。
そして、
「私は〇〇な人」という檻から
自由にならないことには、
それを見つけることも、決めることも、
ましてや、
狂わずして力強く悦び溢れ生き抜くことなど
不可能である、とも思います。
台風の影響で荒れ模様の今朝の曇。
けれど、その向こう、天高く
背景には、いつだって、青空が静かに、
広がっています。
この静寂とともに。
順田ひろみ
※写真は昨日の夕方。湘南江ノ島近く。