「夫子の道は忠恕のみ」の解釈

コロナ混乱の中、教育現場の先生達も
大変のようです。
構造上、いい先生ほど大変、なのでしょうね。

「教師である自分がどう在ればいいか?」
というご相談をなんと3日続けて受けました。

けれど、勿論、そんなの、
私に分かるはずもありません。
そもそも私には何も分かりません。
(役立たずでごめんなさい。)

が、ただ、ふと、こんなことが、
頭に浮かびました。

論語に、『夫子の道は忠恕のみ』とあります。
夫子は賢者や先生のことで、
ここでは孔子のことです。
道とは在りようのこと。
忠恕は真心と思いやりと訳されるのが
一般的で、『先生(孔子)の在りようとは、
真心と思いやりで貫かれているのである』
と弟子の曾子が門人に言ったということのようです。

この解釈をただ、すんなり、
受け入れるのもいいのですが、
『忠恕』という漢字をよくよく調べて
みますと、忠は、真ん中にあって偏らない。
という意味があります。
つまり中心から離れない。
恕は、ゆるすの意。

この2文字から成っている
ということを踏まえての私の解釈では、
『先生の在りようとは、
自分自身から離れないことをゆるすのみ。』
となります。自分自身から離れない為には、
自分自身を観て知ることを必要とし、
自分に正直であることを必要とします。

このように解釈した時、確かに、
この在りようこそ、究極ではないか?
そのように在る存在こそ、
先生(や親や上司)としてふさわしい。
と思うのです。

論語での夫子(=先生)とは、
孔子のことでありますから、
孔子が、そのような道を貫いたとするなら、
孔子って、すっごいじゃーん!
とひとりはしゃぐのであります。

『自分に正直に、自分自身をよく観て知り、
自分自身から離れないことをゆるすのみ』
という在りようを、改めて確認する
きっかけを下さったご縁に、友に、感謝です。

そして、自分に正直であること、
自分自身から離れないこと、
この自分というものを観て知ることへと、
ここへ、ここへと、あの手この手で、
引き戻して下さる力動にも
感謝が湧いて湧いて仕方ありません。

そんな清々しい朝です。
おぼらだれん(ありがとうございます)。

順田ひろみ

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