まっすぐな頭とねじれた頭

誕生から13歳までを、奄美諸島徳之島で
野生児のごとく育ち、
島の言葉『シマグチ』の中に暮らしたから
なのでしょうか、
世界の少数民族のシンプルな生活や

その在りように、親しみを感じます。

都会の高層ビル群などを見ると、
どうかしちゃってるように思えて仕方なく、

今すぐにでも、もっと原始的な(?)生活を
「みんなで、いっせーのせ!で始める」なら、
エコロジーの危機、原発、飢餓飢饉、いろんな問題が解決するのに。

と、思ってしまいます。単純すぎるでしょうか。
だからと言って、あらゆる文明を否定している訳ではありません。

既に在るのだから、否定も何も、在ること起こったことは受け入れる他ありません。

さて、そんな私が大好きな民族に、ピダハンがいます。

平和に生きる民族、彼らピダハン族の言語はとても興味深く、

『彼らの言語には、数がありません。
例えば、お母さんは自分の子どもが何人なのか知りませんが、
子どもの顔と名前を知っています。
今、子どもがどんな気持ちでいるかを知るのに、数は必要ないのです。

ピダハンたちは、大人から子どもまで、
周囲のあらゆる動植物の名前を知っており、
それが、どこに生息し、どんな働きがあるかの知識に長けています。
そして、大人と子どもを分けません。

また、ピダハン語には色を表す言葉、それから時性を表す言葉もありません。
ピダハンたちは、過去や未来のためではなく、
いま現在に生きていると言えます。

そんなピダハンの人々を、不安がらせたり、興奮させたり、
煽ったりするのは難しく、

一日一日をあるがままに受け入れる彼らから、
私たちが学ぶべきことは多いのではないでしょうか。』

(言語学者ダニエル・L・エヴェレット)

ピダハンたちは、自分たちの言葉を「まっすぐな頭」と呼び、
それ以外の言葉を「ねじれた頭」と呼んでいることにも、わたしは興味を抱きました。
もっともな表現であると感じます。

まっすぐな頭(思考)とねじれた頭(思考)では、

言葉(の使い方)が違っていて当然です。
ある意味、頭がまっすぐになってくると、
これまでの言葉の使い方に違和感が出てくると言えます。

いずれにせよ、今、フツーに使っている自分の言葉の使い方に、

更には『言葉』そのものに、
注意を向けてみると、大きな発見が起こります。

『言葉』それ自身を追求してゆくと、当然、
『言葉』の向こう側の領域、『意味』の領域へ、
彼方なる別世界へと、歩みを進めなくてはならないことになるからです。

わたしには、彼らの在りよう方が真っ当に思えてなりません〜。♪

順田ひろみ

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする